庶民の楽しみの場であった高岡歌舞伎座そしてまちなかの映画館

朝倉吉彦(高岡市立博物館運営協議会委員)

演劇を“お芝居”、映画を“活動大写真”と称した頃にタイムスリップして、庶民の楽しみの王座といわれた往年の様子の一端を振り返ってみることにしたい。“昔は良かった・・・”式の一方的な回顧趣味に溺れる気持ちはないが、いささか隔世の感を覚えるあまり、つれづれなるままに回想してみることにした。前述に“往年”と一語で表現したが時代は近現代。歴史上の区分に従えば、明治期(1868)以降、西暦では1901(明治34年)以降とするのが通常であろう。

明治33年に、高岡が大火災で市街の大半が焼失、その後の洪水など度重なる災害の影響もあり、時恰も明治後期から大正・昭和期になると歌舞伎を柱に新派(しんぱ)、新国劇(しんこくげき)などの壮士芝居が愛好されていた演劇界に新演劇すなわち新劇が発展するようになる。加えて同時期に米国(アメリカ)、佛国(フランス)で相次いで地球上初めて動く写真がシネマ或いはムービーの名称でわが国に輸入され瞬(またた)く間に全国に普及した頃である。

高岡で歌舞伎や新派、新国劇などの実演が市民の楽しみとして盛んに上演された最大の劇場(当時は芝居小屋と愛称)が高岡歌舞伎座であった。大火後も唯一の小屋として続けられていた前身の板橋座の頃も含め、東京や大阪からも名優たちが数多く来演して圧倒的な人気を博し多くの市民が楽しんだ様である。

満員の板橋座明治の中頃に市内下川原町で劇場として発足した板橋座が大正中頃に朝日座(あさひざ)と改称して映画常設館となるが、昭和初期に歌舞伎座となり演劇と映画の併用劇場として活用されるようになった。市内に大きな公会堂やホール、会館などのなかった時代に政談演説会や各種集会などにも利用され市民の最大の楽しみの場或いは集会場として親しまれ、利用されていた。木造和風の佇(たたず)まいの正面玄関を入ると、内部は二階建て、一階の畳敷き枡(ます)席を中心に舞台に向って左側に花道(はなみち)があり、二階に腰掛け畳敷き座席の左右に特別席が設けられた鑑賞席に満員の観客が、舞台で演じられる名優たちの名演技を堪能した姿が偲ばれる。

歌舞伎座が名称を変転させながら演劇と映画に即応の取り組みをした情況は、当時の時代的背景が色濃く影響したことが推察される。前述の映画(活動大写真)が無声からトーキーに、更に製作技術・制作スタッフの進歩充実や、第一線で上映される専門映画館の誕生発展の波は、舞台での実演による演劇文化・芸術が映像文化・芸術と逆転の様相を繰返しながらもそれぞれの進路を辿って今日に至っていると云っても過言ではないであろう。

明治後期に活動大写真の名称で関西や東京に輸入された映画が燎原の火の如く全国に普及するのにそれ程の期間を要しなかった。富山県内での活動写真(映画)常設館の第一号は、大正元年(1912)12月に富山市総曲輪で日活特約によりオープンした富山電気館である。それより10ヶ月後に金沢市に誕生、わが高岡市では大正3年4月に市内小馬出町で日活直営館としてスタートした「高岡電気館」が最初の常設専門映画館であり、その後一時期蓬莱座、富士館などと名称を変え劇場との併用を経て、昭和初期に日の出館(ひのでかん)として洋画専門上映館に、そして昭和12年(1937)に新興キネマ系列館の帝国館となり、昭和36年帝国劇場として合併閉館するまで多くのファンに多大な楽しみと文化・芸術の香りをもたらした。

小馬出町の帝国館(帝国劇場)が日の出館の名称で無声映画(活動写真)を上映していた昭和10年頃に、インテリ派の地元弁士とし名調子の活弁で名を馳せていた三宮(さんのみや)基雄氏、同じく楽長として7〜8名の小オーケストラ(当時は楽隊と愛称)をリードしていた音楽家の佐野正氏ら地元の弁士・楽士らが遠来の達人らに伍して活躍し、サイレント(無声)映画を生の声や音楽で支え多くのファンを魅了したものである。しかし、トーキー(発声)映画の出現登場により、弁士・楽士たちも失業の憂き目をみることになる。昭和25年の春頃に前記のS氏に面談する機会を得て、凡そ40年前の情況や近時の映画界事情などのインタビュー記事が同年4月発行の高岡・よい映画を見る会の月刊機関誌“たかおかスクリーン”に特集として紹介掲載されている。

昭和30年代にテレビが急速に普及したこともあり(昭和33年高岡大和百貨店ウィンドーで初の街頭式テレビ放映)、今次戦後の映画黄金時代と云われた頃に高岡市内で10館を数えた街なかの映画館・劇場が、昭和30年代後半頃より順次撤退しはじめ、平成3年(1991)3月ですべての灯を消し閉館することになった。